図工が嫌い
大好きだったはずの図工が・・・
クリエイティブなことが大好きな発達凸凹息子。図工はとても好きな教科だったはずです。
ところが小学1年生の時のある日、学校から帰ってくると「僕、図工が嫌いなんだ」と言うのです。息子にとって、当時決して楽ではなかった学校生活。それでも図工の授業は数少ない学校に行く楽しみの一つだと思っていたので、私も戸惑いながら「何かあったの?」と聞くと、「だってみんな僕の作品を評価してくれないから」と話すのです。
どうやら学校では、作品が出来上がると、お互いの作品を鑑賞して、評価を書いていくらしいのですが、息子が言うには、みんなが自分の作品の評価を書いてくれていなかったらしいのです。それがショックで図工が嫌いになってしまった、とのこと。
テーマと違う作品を作って生じてしまった『行き違い』
このお話、なぜお友達は息子の作品を評価してくれなかったのか?について掘り下げていくと、続きがあるのです。
この時のテーマは「どうぶつむらのピクニック」ということで、空き箱を主材料にして、動物をイメージして作品を作るものでした。ですから、お友達はみんな、なんらかの動物を作っています。ところが、息子の作品には『テーマ「すーぱーたいほう」』と書かれていました。
そうです。息子の作品は与えられた「どうぶつ」というテーマに一切関係のないものだったのです。そりゃあ、お友達も戸惑いますよね。どう評価すれば良いのか分からなかったのでしょう。でも、息子は力作が出来たぞ!と自信満々。さぞかしみんなは驚いて、自分の作品を評価してくれるだろうという期待を持っていたようです。
テーマを理解せずに、勝手に作ってしまった息子に原因があるのですが、やる気がないのではなくて、こういった周囲の空気やニーズを汲めないことによる『行き違い』によって、本人が生きづらさ、やりづらさを感じてしまうことは、発達障害あるあるなのかなと思います。
でも「豊かな発想力を活かして意欲的に取り組めている」のは事実で、これに関してはとても素晴らしいことのはずです。息子の場合は「どうぶつを作る」というテーマがあることがそもそも理解できていませんでした。どこに課題があったのかは、子どもによって異なると思います。テーマがあるのは分かっていたけれど、その時はどうぶつを作りたくなかったから違うものを作った、という理由である場合もあるかもしれません。
顕在化している事実だけで評価したり判断したりしないで
「勝手にテーマとは違うものを作った」という顕在化した事実だけで、「あなたは間違っている、なんでそんなことも理解していないんだ」と頭ごなしに叱ってしまうと、「意欲的に自由に発想して工作出来た」という良い面までも否定された、と子どもは感じてしまい、自信とやる気を失ってしまいます。大人からすると、非常に骨の折れることではあるかもしれませんが、顕在化した事実の水面下にある子どもの心情、背景を探るように、対話をしていくことが必要だなと感じています。
少し話がずれますが、私は以前、数名の部下を持った時に、顕在化している部下の言動だけで判断をするのではなく、見えていない水面下にある背景や思いを出来る限り理解するために、丁寧に対話することを大事にしていました。するとある日、上司から「過保護だ」と指摘された、という経験があります。
大人相手か子ども相手かは違いますが、部下と関わることも子どもと関わることも、私はある意味同じだと考えています。それは、子どもも「一人の人間」としては対等だと考えているからです。上司と部下も、役割の違いだけで「一人の人間」としてお互いは対等なはずです。ただ、年齢による経験の違い、知識の違い、そして立場の違いから、双方の見えている世界というのは違います。そもそも持っている価値観や考え方の違いもあります。
それらについて理解に徹することを求められるのは、『相手の成長を促す役割』を担っている親であり、上司であるのではないか、というのが私の考えです。
図工が嫌いになりかけた息子の話からずいぶん話が発展しましたが、発達障害の子どもたち、だけではなく、子育て、部下育てには『ひたすら理解に徹する』これが大事なのではないかというのが、諏訪部彩の気づきであり、経験したからこそお伝えしたいことなのです。